活動の軌跡
主な活動の歴史と実績
2020年 組織編成し、ホームページもリニューアル。
組織改編に伴い、当会からAMF2020という団体が分離して活動することになった。
2018年 国籍はく奪違憲訴訟裁判の支援開始
2016年 日本記者クラブにて会員が国籍法について会見
2009年 日弁連人権擁護委員会にて会員が講演
2004年 4月 民主党法務部門会議の重国籍をテーマとした早朝勉強会に参加
7月 パリで開かれた衆議院法務委員会の欧州法制度視察団と
重国籍容認を求める請願者との懇談会 に参加
2003年 「各国重国籍法制調査」2回目を実施
2002年 「各国重国籍法制調査」1回目を各国大使館あてに実施
2001年 国籍法改正について国会への請願書署名運動を開始
1999年 4月参議院法務委員会、
7月衆議院法務委員会にて、外国人登録法・入管法に関して会員が参考人として意見陳述
1991年 「二重国籍」を出版
1989年 「楽しくやろう国際結婚」を出版
1988年 各国大使館に「重国籍に関する質問書」のアンケート実施
1987年「国際結婚ハンドブック」初版を出版
国籍法改正による経過措置の期間(3年)の延長を求める要望書提出
1986年 「素顔の国際結婚」出版
1985年 1984年に国籍法が父系血統主義から父母両系血統主義に改正され、この年に施行される。
1984年 国籍法・戸籍法に関して衆参両議院議長に陳情
1983年 法制審議会国籍法部会で意見陳述
国籍法改正の際の氏と戸籍についての要望書を提出
1981年 日本女性の子どもも日本国籍を取得できるよう要望書を提出
1980年 名称を「国際結婚を考える会」と変更して活動開始
配偶者の在留資格や子どもの外国人登録証についての要望書を提出
1979年 外国人を配偶者にもつ7人の女性が「国際結婚日本女性の会」を立ち上げる
先輩会員からの寄稿
1979年に発足した「国際結婚を考える会」には40年の歴史があります。発足から間もない80年代、国籍法や入国管理法における「当事者」として政府に働きかけ、その改正に至った道のりについて、会員の方々からお聞きしたいと考え、お願い致しました。国際結婚をすると、母親は自分の産んだ子供を日本国籍にすることができないという現実に直面し、どれほど激しい怒りを感じたことでしょうか。当時を振り返って生の声を聞かせて頂くことにより、私たちもタイムスリップしたような気持ちになりました。そして、私たちが今も、先輩方のご尽力の恩恵を受け続けていることを忘れずにいたいと思っています。
このコーナーでは、長年「国際結婚を考える会」の会員としてご活躍、貢献なさっていた会員の皆様に発信して頂くことによって、共に学び考える機会を提供できたらと思っております。まずは四名の「先輩の声」をご紹介いたします。
マロニー名子さん
私は創始者の一人ではありませんが、入会は1980年後半だったと思います。当時、子供はいませんでしたし、当分作るつもりもなかったのですが、「自分の生まれ育った国で産んだ子供が外国人、つまり国に滞在許可をもらう立場になる」という当時の国籍法に私自身の人権を侵害されている感覚で大憤慨していましたので、何かできることはないかというのが入会の動機でした。署名集めから始まって、当時お住まいも近かった森木和美さんにご指導いただきながら、一緒に公聴会に出席したり議員への陳情にもくっついて周らせていただきました。当時はまだパソコンやインターネットどころかワープロもなかった時代で会報の印刷も、私のオフィスに出入りの印刷屋に活字を組んでもらって校正して印刷してもらって発送する形でした。
一方、当面の現実的問題の解決のため入国管理法改正(1982年1月1日施行)に力を注ぐことにもなりました。それまで家族ビザというものが存在しなかった入管法に、新しく「日本人の配偶者または子」というカテゴリーが作られることになり、当時の国籍法のもとでは日本人(女性)の子はみなビザを必要とする外国人だったわけですから、今とは比べものにならないくらい影響を受ける人数が多い法律改正だったのですが、入管現場では日本人女性の家族には適用しないという「内部規準」を作っていました。たまたま私の夫のビザ期限が新法施行日直後で会にとっても初めてのケースだったため、入管では驚くほど酷い対応を受けましたが、「先例」を作らなければという思いで食い下がりました。必死でした。若かったですね。この過程で身体が震えるほどの怒りを経験しました。そんな巡りあわせで、私の夫はその外国人夫のビザ第一号保持者です。その後許されるようになった永住権も行きがかり上挑戦しましたので、それも第一号保持者です。1989年に渡米(夫にとっては帰国)しましたが、この永住権に関しては、今でもこちらの日本領事館で珍しがられて、「くれぐれも、くれぐれも、お大切になさってください」などと言われてしまうので、今でも保持しています。
ハワード弘子さん
1977年娘が生まれる少し前に、当時の国籍法を知り、日本で日本人の私から生まれる子が日本国籍ではないと知りました。その時のショックは、今でも忘れられません。外国人と結婚した女性への差別、同じ悩みについて話し合える人も身近にいませんでした。その後、女性差別の旧国籍法改正に声を上げて立ち上がった、発足直後の「国際結婚を考える会」を知り、救われた気持ちで参加しました。5年余りの長い道のり、署名集め、議員達への陳情、国会の傍聴などの末、1985年に、外国人を父に、日本人を母に生まれた子供たちも日本国籍が取得できるようになりました。
当時は、外国人と結婚したことで、一般の日本人には知り得ない様々な問題や差別が他にもありました。日本人同士が結婚した場合、戸籍上、夫又は妻のどちらかの姓を一つの家族として選ぶことができます。外国人と結婚した場合、戸籍上も結婚前の日本名のままでした。私は社会生活上支障が生じたこともあったので、家庭裁判所の審判の末許可を得て、戸籍名を夫の姓に変えました。この件も、子どもたちの日本国籍取得後に係る姓の問題とし、法務省に意見書を送りました。1985年1月に戸籍法の改正がされ、国際結婚の場合も結婚時に戸籍の姓も夫の外国名を選ぶことができるようになりました。
また、当時はパスポート上の氏名は、夫の姓を名のっていても、本来のスペルと違う、ヘボン式ローマ字の表記がされてました。ここにも男女差別があり、母親が外国人・父親日本人の子の場合は、特例として本来のスペルで表記されていたのです。この件では、外務省旅券課に私たちの要望を伝えに行きました。その後、パスポートにはすべての外国の姓名は、差別なく正しいスペルで表記されるようになりました。活動としては、他にも不等な外国人の住居探しへの差別(外国人・犬・猫 お断り)をなくすことを報道界へもアピールし、主要新聞などでも取り上げてもらいました。
そして、国際結婚の家庭の子どもたちが、日本の学校になじめるような環境作りとして、私たちと同じ家庭環境である外国人妻の会と一緒に横浜市内の小学校を訪問し、色々な国の文化紹介や外国の方たちとの交流の機会を作りました。
当時を振り返ると、「私たちがやらなければ何も変わらないと」と信じながら、ひたすら活動した頃でした。
蒔田直子さん
私が「国際結婚を考える会」を探し当てたのは1984年、日本で生まれ育った在日韓国人2世のパートナーと法律婚すると子どもは日本国籍を得られないというのに驚き、国籍法改正が近いらしいというけれど役所の窓口もどこにも情報がない。さあ、どうしよう?と、そこで初めて出会った創設メンバーの方たちから、外国籍の夫たちが日本で暮らすための「配偶者ビザ」がたった2年前まで存在しなかったこと、配偶者である日本人女性たちが奔走して「配偶者ビザ」実現に至り、そして日本で自分が産んだ子どもになぜ日本国籍が与えられないのか?という当たり前の要求に向けて、当事者として国会にも出向き自ら動いていることを教えられ、「動けば変わる」という驚きと勇気を与えられた。
「外国人登録法」や「出入国管理法」は、外国人と家族にならなければ縁遠いものだったろう。1947年公布の「外国人登録令」は、大日本帝国憲法下で公布された最後の勅令であり、日本の植民地下で皇国臣民にされた朝鮮半島や台湾の人々の「日本国籍」を喪失させ、治安管理する目的でスタートした。すべての外国人管理はここに端を発していて、「人として、家族としてともに生きる」権利は念頭におかれてはいなかった。私が「国際結婚を考える会」に出会った当時は、その外国人登録法に定められた「指紋押捺」の撤廃に向けて、夫や在日の友人たちが逮捕覚悟で押捺拒否を始めたときでもあった。在日コリアンだけでなく、戦後に日本に暮らすことになったさまざまな国籍の人々が、「差別と管理」の象徴であった指紋押捺を拒否していた。そこには個人の意思表示で、政治運動という意識ではなく、暮らしの中の切実な願いを自分の行動を通じて実現しようとする草の根の運動の勢いがあった。
男女両系の国籍法が1985に成立した後、80年代の後半から90年代にかけて、外国人労働者の在留をめぐる問題が目の前に現れた。オーバーステイで働く外国人と恋愛し結婚する女性たちの相談を受けたり、アジアからの女性たちと日本人との間の子どもが無国籍なってしまうなど、切実で深刻だった。京都ではYWCAに外国人女性からの電話相談窓口が創設され、国際結婚を考える会のメンバーもこの動きに加わっていった。
出入国管理法という国の法規は、国際家族にとっては、ともに暮らし、お互いの故郷を自由に行き来するためにその内容を学び、移動の自由や権利を求めて働きかけていく対象であり、自分たちには力があることを信じて、ささやかであっても自由を求めて行動したいと願っている。
G. S. さん
日本で語学教師をしていたフランス人の夫と結婚し、息子を出産したのは1982年のことです。妊娠中に、ここ日本で私から生まれる子に日本国籍がなく、入国査証を受けて在留資格を取らなければならないと知ったとき、「これは一体何の冗談か?」と呆気にとられ、そして腹が立ちました。
ちょうどその頃(1981年12月ごろではなかったか)、新聞に国際結婚をした日本人女性たちが、この差別の解消に向けて東京で会を結成したという記事が掲載されました。その記事の最後には大阪でも同様の動きがあり、いついつどこで集まるということが書き添えられていました。「これだ!」と私は京都からその大阪の集まりに出かけていきました。そこで京都にも仲間が何人かいることがわかり、京都の会を結成するに至りました。最初は10人ぐらい(だったかしら?)でのスタートで、同じ立場の素敵で頼もしい女性たちと出会えてうれしかったです。高校の時に制服廃止運動をやったノリで、結構楽しみながら一生懸命活動しました。土井たか子さんや田中宏さんに来ていただいたり、入管法の学習会をしたり、国会にも陳情に行きましたっけ。会報を出すのも、ガリ版刷りとまでは言わないまでも今よりもずっと大変、一大仕事でした。
あれからもう30数年。その間、「国際化」「多文化共生」と賑やかでした。しかし、果たして外国人を取り巻く日本の状況はよくなったのか…。確かに、日系人に定住の在留資格が認められたり、日本人の子を育てる外国人親に定住が認められたり、出生後認知により日本国籍取得の道が開かれたりと改善もありました。しかしそれらもみな、日本人の利益にかなえばこその施策だったでしょう。そして2017年の入管法改正(改悪)での管理強化、技能実習生などの移住労働者に関わる施策や昨今の入菅収容センターでの長期収容や虐待などの人権侵害を見るにつけ、結局この国は何も変わっていないのではないか…、と思わされます。80年代に入管から学習会に来てもらった講師には、入管法について「この法律は日本人の利益のために外国人を管理する法律です」と堂々と言われました。そして今その趣旨は、残念なことに、そのまま引き継がれているのだと思います。(G.S.)